永谷宗園茶店ホーム > 日本煎茶の祖 永谷宗円 > 新製煎茶江戸へ
宗円は新製煎茶の真価を、保守的な京都ではなく当時文化の中心地であった江戸に問い、その販路を開拓しようとした。
元文3年6月2日、宗円は脚半甲掛に足を固め、草鞋の紐とともに心も強く引き締めて、東海道をさして踏み出した。江戸への道すがら富士山に登り、頂上まで達すると新製煎茶を富士山の山神に献じ、「この茶を天下に広めさせたまえ。」と祈った。
江戸に到着した宗円は、新製煎茶を茶商へ持ちまわった。しかし、これまでの茶色い煎じ茶とあまりにも異なるため、誰も買い入れようとはしなかった。最後に日本橋の茶商山本屋を訪れたところ、当主の山本嘉兵衛の目に留まった。白い茶碗で試してみると、その美味に感嘆し小判3枚で買い取り、さらに翌年の購入を約束した。そして、これに「天下一」と名付け販売すると大いに江戸町民の賞賛を得、爆発的な人気を呼んだ。
元文三年秋、山城国綴喜湯屋谷の人永谷宗円なるもの、始めて梨蒸煎茶なるものを発明し、佳品若干斤を携え、江戸に来たり、試売を四世嘉兵衛に乞う。その品質の佳良にしてその味の美なるあたかも甘露の如しと。これを発売するや家声大いに揚り、八百八街到る処としてこれを愛喫せざるものなきに至れり。これ江戸市民が宇治茶を愛用せるの濫觴(らんしょう)なりとす。(『山本家旧記』)
茶商山本屋の名声はこのために大いに揚がり、山本家は永谷家にお礼として毎年小判25両を明治8年まで贈り続けたという。山本屋は「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」の広告で知られる山本山の旧名である。
このようにして、新製煎茶の販路拡大の第一歩は成功し、煎茶が江戸の民衆の中に浸透、定着していったのである。